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愛知万博訪問記
#2 ヨーロッパ州館 05/05/08 2度目の愛知万博訪問,家族とは初めての訪問です(中三の次女は部活動で今日も不参加)。実家の母親と金山で合流,「エキスポシャトル」(JR中央線〜愛知環状鉄道)の始発で万博八草へ,リニモに乗り換え長久手会場に到着です。リニモは初乗車,本当に振動が少ないんですね,ちょっと感動。 9時の開場までゲート前で待機。列の後ろの親子連れの会話を聞くとはなしに聞いていると,父親は私と同世代のよう。「お父さんがお前の年の頃,大阪万博へは自転車でよく通っていた。開場と同時にアメリカ館へ走った」などと中学生くらいの息子さんに関西方言で語りかけてみえました。私の世代にとって大阪万博は本当に懐かしい思い出です。今回の万博では,何でも関西方面からの来場者が特に多いとか。「大阪万博での感動をもう一度!」という気持ち,よくわかりますねぇ。 大阪万博は,外国人を見たこともなかった田舎の10歳のドボズにとっては,「世界」に触れた初めての機会でした。あんな多くの外国人を見たのは初めてでしたし,世界にいろいろな国のあることを実感しました。あの時の感動が,世界の国の歴史・文化・地理に関心を持つようになった原点ではないかと思います(他に思い浮かばないので)。 そんな私が,今回の万博で一番感慨深く思ったのは,出展国の様変わり。特にグローバルコモン4(欧州)を歩いていると,この35年間の時代の推移を感じずにはいられませんでした。 チェコスロバキアは分裂して,チェコに(スロバキアは不参加)。 東西ドイツは統合して,ドイツに。 そして極めつけは,旧・ソビエト連邦諸国。大阪万博ではアメリカと並び,人気とパビリオンの威容を誇ったソビエトも,ご存知のように解体してしまいました。今回の参加国は次のようでした。 ロシア連邦,ウクライナ,リトアニア,コーカサス共同館(アゼルバイジャン,アルメニア,グルジア)(GC4) 中央アジア共同館(ウズペキスタン,カザフスタン,キルギス,タジキスタン)(GC1) この中で,私の思いいれのあるリトアニアとアルメニアについて語ってみたいと思います。 リトアニア。言わずと知れたバルト3国のひとつです。歴史や言語学に関心のある人にとってはちょっと気になる名前ではないかと思います。中世には東ヨーロッパの大国でしたが,2度にわたりロシア(ソビエト)に併合されました。特に,1940年のソビエトによる併合は教科書にも記述があり,よく知られています。また,リトアニア語は,言語学においても有名です。北隣のラトビア語とともにバルト語派を形成し,印欧諸語の中でも古い特徴を残しているとされています(具体的にどのような特徴を残しているのか,門外漢の私は知りませんが)。 一時期,少数民族問題の新聞記事をスクラップしていたことがあったのですが,新聞ではほとんど名前を見ることのなかったリトアニアが,突如紙面トップを飾るようになったのは,ソビエトの崩壊前夜のことです。というよりは,1990年のバルト3国の独立宣言が,ソビエト崩壊の発端になったかと記憶しています。そのリトアニアも,他のバルト諸国とともに,2004年にはEU,NATOに加盟,完全に「欧州の一員」となっています。隔世の感がしますね。激動する世界史の一端をリアルタイムに見ることができ,歴史ファンとしてはいい勉強になりました。 中学生の時に歴史教科書で初めてその名を知り,ちょっと気になっていた国,リトアニア。今日はそのリトアニアに初めて接する日となりました。午前中は,家内の希望で長久手日本館とドイツ館へ,午後は私の希望でこのGC4へ来ました。目的は,もちろんリトアニア館(写真左)です。現地語ではLietuva(リェトゥヴァ)と発音するようです。展示物は,私にはちょっと難解,なんでも現地で一番有名な日本人のインタビューが,螺旋状になったDNAの3次元モデルの中のモニターで流されているとのことでした。中は広くないのですが,螺旋状の展示物の奥にはショップが。記念に国旗をあしらったバッジとシール,切手を購入してきました(写真右上)。 アルメニア。こちらも古くて新しい国,初めてのキリスト教国として知られています。亡命アルメニア人の子孫には,指揮者のカラヤン,テニスのアガシなどがいます。言語学的にも,印欧語族の一語派を形成していること,独特の文字が有名ですね。 スクラップをしていたころ,このアルメニアも新聞紙上によく登場しました。隣国のアゼルバイジャン(トルコ系)とナゴルノ・カラバフ自治州の帰属を巡って民族紛争が勃発,現在も係争中です。ですから,この万博でアゼルバイジャンとアルメニアがコーカサス共同館(写真左下)の中で同居しているのは意外でしたし,驚きました。 確か,CIS(独立国家共同体)の会議において,アゼルバイジャン大統領が,対立するアルメニアと同席するのを拒否して会議を欠席していますし,この万博の仕事に来たアルメニアの若者がアゼルバイジャン人と一緒に仕事をすることを知り,帰国しようとしたなんて話もあります。紛争当事国が同一パビリオンに入り,「健康と長寿〜コーカサス共同館」と銘打った表示に違和感を持ったのは私だけでしょうか。 コモン4を散策後,キッコロ・ゴンドラで北口に戻りました。ゴンドラからの景色(写真右下)はなかなかのもの,お勧めです。「なかなか来れないのでもう少し見ていく」といい,90分待ちの企業パビリオンへと向った母親と別れ,4時過ぎに会場を後にしました。リニモ・地下鉄を乗り継いで,会場北口から我が家の玄関までちょうど1時間。こんな近くで万博が開催されているとは幸運としか言いようがありません。大阪万博は6回訪問,愛知万博もそれ以上訪問したいものです。次回は,アジアのパビリオンを訪問,アジア伝統料理を食してみたいと思っています。
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(追記) 05/10/02 ゴールデンウイークに大垣に帰省したとき、母親と愛知万博の話になりました。父親はあまり万博に興味がなかったので、万博に興味を持っていた母親を誘ってさっそくの訪問となりました。母親曰く、「大阪博も最初は空いていたから、愛知博も空いている最初の頃に行くべし」。今から思うとまったくその通りでした。母親はその後、近所の友人を誘って数回訪問。主なパビリオンは待ち時間もなく回ったとのことです。 愛知万博で活発に見学されている年齢層は70才前半くらいまでとの印象を受けました(もちろん、80才代でもリュックを背負って歩き回っているかたもお見受けしましたが)。また、大阪万博を記憶しているのは、私の周囲に限っていうと当時10才位までのようです。 このように考えて見ますと、大阪博と愛知博の2つの万博を満喫できたのは、ちょうど親から私の世代(1935〜60年生まれ)ということになります。ちょうどこの時代に会場近くの地域で生まれ生活している私や母親は、万博に関していえば大変ラッキーだったということになりますね。 |