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#08  愛知万博閉幕1周年を迎えて 06/09/30

 月16日から始まった愛知万博閉幕1周年記念イベントも大盛況のうちに終了、期間中には35万人が訪れたといいます。かく言う私も、終盤には5日間中4日出動するという、万博閉幕間際さながらのハードスケジュール。そんな中、久しぶりの万博気分を満喫してきました。
       
 
 年の9月25日、愛知万博が”感動と熱狂”のうちに閉幕。翌日のラジオや万博関係のブログからは「万博燃え尽き症候群」なることばを頻繁に見聞きするようになりました。私も万博閉幕後の虚脱感と疲れから、しばらくの間は放心状態。万博ファンであることを知っている家族や職場の人たちからは、「寂しなってまったなぁ」「もう行くところ、なくなってまったなぁ」「休みにやること、なくなってまったなぁ」「次は上海やなぁ」などという、慰めともからかいともとれることばをかけられる日々。

 気を取り直し、まずは、自分のサイト『大垣方言研究所』の中に「活動日誌」として掲載していた「愛知万博訪問記」を元に、万博サイト『万博を歩こう』を立ち上げました。書きかけの訪問記や会場の写真のアップ、さらには1週間おきの会場跡地の定点観察やイベント参加。そして、そんな中で、多くの万博ファンの方たちとの出会いがありました。昨年9月25日はひとりで迎えたフェアウェルパーティーでしたが、今年の9月25日のメモリアル・ファイナルでは多くの万博仲間とすばらしい時間を共有することができました。感謝です。


 知万博で生活が一変したという万博ファンは、私の周囲では少なくないですが、私も同様。正確に言うと、万博会期中よりは会期後に大きな変化がありました。個人的なことで恐縮ですが、万博前はバンド活動と方言研究が、仕事・家庭生活以外の時間のほとんどを占めていました。それが、閉幕後には「万博の記録を残しておかなければ」という使命感(?)から、万博サイトの作成に集中したく、16年間所属したバンドを休部、方言研究もお休みすることにしました。

 しかしながら、モリコロパーク開園の頃にはサイトの完成をという当初の予定はまったく当てがはずれてしまいました。でもまあ、楽しみながら気長にやっていくつもりです。万博サイト作成の楽しい点は、音楽や言語学のように決まりごともないし、どのように作成するかはまったく自由ということではないかと思っています。その一方、他の趣味の知識が意外と役立っています。

 ちなみに、当サイトは、城郭ファンの目で万博会場を観察し、言語学の手法で資料を整理したものです。言語学の手法とは、「共時態と通時態を峻別する」(ソシュール)ということ。つまりは、空間的に広がって行く情報(共時態=会期中)と、時間軸に沿って広がっていく情報(通時態=会期後)を混同することなく、区別して記録していくということです。

 当サイトは閉幕後1年経た今も未だに工事中。書きかけの訪問記、会期中の画像の整理などなど、いまだに万博が終わらずにいます。今後は、会場外・記念公園内の定点観察、場外に移転した万博遺跡の追跡、そして一番力を入れてきた”紙資料”の整理と、宿題は山積。愛知万博の資料の整理終了後には、想い出の大阪万博記念公園を再訪したいと考えています。


 の愛知万博は、自分にとっていったい何だったんだろうと、ときどき考えてみます。でも、自分の中では万博がまだ終わっていないので(これを言うと「とっくに終わっとるがね」と、いつもつっこまれますが)、いまだに総括できずにいます。「非日常の中での体験」、「人文地理と音楽という、まったく関連のない二つの趣味が初めて融合したイベント」などなど、答えはいくつもこじつけることができます。でも実のところ、「心の奥底にしまい込んでいた35年前のバンパクの想い出が、バンパクという空気再び吸ったことにより、当時の9歳の万博小僧に戻ってしまった」、というのが一番の答えではないかと思っています。

 そんなわけで、これからもしばしの間、万博小僧のままでバンパクを楽しんでいきたいと思っています。当サイトを訪問いただいた皆さんには万博会期中の想い出に浸っていただいたり、会期後の様子を楽しんでいただけたら。そして、5年後、10年後の「愛・地球博記念公園」や「あいち海上の森センター」を訪れた人たちが、2005年にその場所で何が行われ、それがどのようにして今の景観に変ってきたかを知る資料として、当サイトを残せたらと願っています。



#07  城郭と万博・3〜城郭破却と会場取り壊し 06/06/28

 のサイトを開設する際のコンセプトのひとつが、万博会場の取り壊しを通じて城郭破却の疑似体験をする、というものでした。万博会場の取り壊しもほぼ終了した現在、答えを出さなければと思いつつ、記念公園の開園がそこまで迫ってきました。記念公園の撮影に夢中になる前に、この9ヶ月間で得た感想をば。

 1、城郭破却

 政期を通じて大名の権威の象徴であった城郭も、徳川幕府が崩壊して明治新政府の治世になると、「旧時代の遺物」「無用の長物」となりました。明治4年(1871)の廃藩置県までは藩の政庁としてかろうじて機能していた城郭も、明治7年(1874)の廃城令により、一気に取り壊しが始まりました。

 天守閣や櫓、城門などの建造物は民間に払い下げられ、移築されたり薪に。武家屋敷のあった郭内は畑として開墾されていきました。また、軍隊の駐屯地となった城郭でも、建造物の多くは同様に取り壊されています。

 そんな中、文化財としての価値が認められ、取り壊しを免れて保存されることになった城郭もいくつかありました。その影には、城郭の保存に尽力した功績者が必ずいます。姫路城や名古屋城では中村遠重大佐、彦根城では大隈重信の存在がよく知られています。二百数十もの城郭が破却されていくなか、取り壊しを免れたこれらの数少ない城郭は、本当に幸運だったといえます。

 
 百数十の不運な城郭の中には、私の故郷の城郭、大垣城も含まれています。4層4階の天守を中心に三重櫓5基、二重櫓10基、渡櫓26を擁し、郭内には多くの武家屋敷が配置され、4重の掘りに囲まれた、美濃国最大の10万石の居城に相応しい荘厳な城郭であったと伝えられています。大垣城も他の城郭と同じく明治維新後、破却が始まりました。廃藩置県の前年、まずは城下町を防御する東西の総門、郭内を防御する7つの門が破却、そして明治6年(1873)には旧郭内の建造物、石垣の民間払い下げが決まりました。

 旧大垣藩の士族の間で保存運動が起こりましたが、何分先立つものがありません。町衆も、総門取り壊しの際、士族に襲われそうになったことがあり、士族をはばかって誰も手出しができなかったそうです。

 そんな中、一柳元吉、杉山又一、高木貞正の3名が、中学校を設立するという名目で県より大垣に無償払い下げを受けることに成功。しかし、なかなか中学校も建たないうちに、県から催促。用途を公園に変更するという妙案で、天守閣とそれに付随する櫓、石垣だけはなんとか破却を免れることができました。これが、現在の大垣公園です。

 それでも多くの櫓や武家屋敷は取り壊され、旧郭内は畑や林になってしまいました。旧郭内のその後の運命を大きく変えたのが、明治17年(1984)の東海道線開通。旧郭内の真ん中に駅前通が貫通し、日清戦争の頃(1994)には商店街が立ち並ぶようになりました。大垣城の旧郭内は、市街地が発展するにつれてこのように内部から破壊されていったのです。

 4重の堀も次々に埋め立てられていきました。明治39年(1906)に、内堀の一部を埋め立てて招魂社が移設されたのに始まり、昭和初期には道路拡張のため堀が犠牲になっていきました。そして、昭和14年ごろにはとうとう天守閣は裸城となってしまいました。その天守閣も戦災で焼失。これにより、藩政期の大垣城の遺構のほとんどは、大垣市街地に埋もれてしまい、残るは天守閣の石垣、市内を流れる川・側溝となっている外堀・総堀だけとなっています。これは、大垣だけでなくその他の多くの城下町にも見られたことでした。


 2、万博会場取り壊し

 2005年9月25日。185日間に渡り開催され、2200万人が訪れた愛知万博も閉幕を迎えることになりました。翌日から広大な万博会場の取り壊しが開始、会場跡地は閉鎖され、協会・工事関係者だけが入場を許されるだけとなりました。

 翌日からは多くの万博ファンが訪れ、中に入ることの出来なくなった会場跡地の様子をゲート前から伺っていました。日曜日ともなると、北ゲート前、西ターミナル周辺、砂防公園には東海三県ナンバーだけでなく遠隔地からも取り壊し工事の様子を見学に来場、会場周辺は乗用車で溢れかえっていました。誰しも、思い入れのある万博会場の閉幕後の行方が気がかりだったのでしょう。

 年内いっぱいでほとんどの企業パビリオンは撤去が完了、それにしたがいカメラを片手に訪れる万博ファンの姿も次第に少なくなってきました。閉幕して半年を過ぎたころにはほとんどの施設も姿を消し、北ゲート周辺も西ターミナル周辺は見渡す限り露出した表土があらわになってきました。ここが、ほんの半年前までは、多くの人で賑わった万博会場であったとは想像できないほど、まさに「夢の跡」といった感がしました。


 3、城郭破却と万博会場取り壊し

 半年間、毎週のように通いつめた万博会場。私にとっては特別の想いのある場所となりました。閉幕翌日はさすがに消失感もあり、「燃え尽き症候群」に。閉幕後2日目、初めて会場跡地を訪れました。閉幕間際には毎日20万人近くが来場していた会場も、閉鎖され人影もありません。関係者の姿と工事車両が行き交うだけ。日常生活の一部だった会場が、もう手の届かない別世界になったことを痛感した瞬間でした。

 会場跡地見学の帰路、130年前に城郭が閉鎖されたときのことをついつい想像しました。300年間、城下町の中心であった城郭、明治維新を迎えた人にとっては物心ついた頃から目にしてきた光景でしょう。特に、郭内に居住していた藩士は郭外に立ち退きを強いられ、郭内の武家屋敷は取り壊されていきました。そのとき、彼の人たちは何を思ったのでしょうか?

 そして、万博が閉幕して半年も過ぎたころ、ふと思ったのは次のこと。130年前にも、城郭破却の様子を伺いに毎日破却現場をさまよっていた、現在の私のように人はいなかったのかと。一部には破却の様子を撮影した古写真も残されていますが、写真がまだ一般的でなかった明治初期、破却の光景を自分の目に焼き付けておこうとしていた人もきっといたことと想像されます。幕藩体制から明治へと時代が大きく動いていく中、それまで城下の象徴であった城郭が破却され畑に姿を変えていくのを目にして、彼の人は心の中で何を思ったのでしょうか?

 300年間続いた城郭と半年間の万博とは比較にはならないですが、130年前の人たちの「城郭が閉鎖された瞬間」と「城郭が破却されていく瞬間」の想いを、実感することはできないが、想像することができた。これが「城郭破却疑似体験」の答えと言えば答えでしょうか。


 〔参考文献〕
   伊藤信(1930)『大垣市史』大垣市役所
   大垣青年会議所(1981)『大垣ものがたり』
   太丸伸章(1995)『名古屋城』碧水社
   新井邦弘編(2006)『よみがえる日本の城〜城の歴史2』学習研究社  ほか
 
 



#06 2005、万博イヤーの終りにあたって 05/12/31

 品業界に携わる私にとって年末は一年で一番の書入れ時、毎年、大晦日の昼まではしっかりと仕事。年末の喧騒がないと年も越せないですし、一年が終わった気がしないですね。そして紅白を見ながら年賀状の宛名書き。この一年ももう終わろうとしています。今年はみなさんにとってどのような1年だったでしょうか? このサイトをご覧になっている万博ファンのみなさんにとっては、「万博で始まり、万博で終わった」忘れることのできないすばらしい1年だったことと思います。

 
 にとっての愛知万博は、4月10日に突然始まりました。ゴールデンウイーク・コンサートの前に一度ステージで演奏したい、というきわめて安易な理由で、私たちのバンドは「愛知県館」のステージに立つことになりました。それまでは、万博誘致・会場変更などが話題になるだけで、一般市民のレベルではあまり万博人気が盛り上がらなかったようですが、この私も同様。そんな私がバンドの皆に連れられて会場に入ったとたん、35年前の大阪万博当時の「万博小僧」になっていました。バンド出演を含め、32回来場。こんな私に対するバンドメンバーの印象は。

驚きこの人万博マニア。なんと32回も入場したそうです。それも夏の暑い最高の人出の日も、大混雑の最終日にも足を運ぶという気合の入り様。更に一人でも行ったとか・・。ここまで来ると真似が出来ない。が、もう、真似も出来ない。し、真似したくない。
  「レア・サウンズ・ジャズ・オーケストラ 2005、The 30th Anniversary Live vol-2」コンサートプログラム(11/06)より

 万博閉幕後も毎週写真を撮りに訪問、そしてとうとう万博のサイトまで立ち上げてしまいました。1年前には想像もできなかったことです。こんな私に対するバンドメンバーの印象は。

話題5 まだ万博

「チームB」にその時おられたはずのS崎さん参入。この方が加わると、万博の話になる。万博にこりもせず!三十回以上行ったという、かわりもの・・もとい、つわもの。で、その続きがまだあるとか。「昨日も万博行ってきてねぇ」。あの、先輩、寝ぼけていらっしゃいませんでしょうか。万博はとうの昔に終了していまして・・。「そんなことわかっとるがね。解体を見るのも<おつ>なもので・・」あの。いったい何が<おつ>なものなのでしょうか・・と一様に聞いていた者皆同感覚(F込さんが聞いていたら怒っていたかも!)。しかし、同様のマニアの方が沢山おられるそうで。いろいろな人がいるものだ。
   レア・サウンズ・ジャズ・オーケストラ公式サイト「練習日誌〜忘年会」(12/11)より


 
 世間一般では、万博はもう過去の出来事。家族やバンド仲間からは、変人扱い(?)ですが、私にとっての万博は「4月に始まり、まだ終わっていない」というのが正直な気持ちです。


 知万博は、私にとっては理屈なく本当に楽しめたイベントでした。仕事も家族も(?)忘れ、このように無邪気に楽しめたのは、バンドのメンバーと1週間のアメリカ演奏旅行(モンタレー・ジャズ・フェスティバル出演)以来、8年ぶりのことではないでしょうか。仕事や家事に頑張ってきた自分にとっては、いい「ご褒美」になりました。

 それでは、万博の魅力って一体なんでしょうか? 万博の魅力は「訪問記」で度々触れてきましたが、思いつくところを述べると、
  ・一生に何度も経験できるものではないし、半年という限られた期間しか開催されない。
  ・展示だけでなく、食文化・音楽・ダンスなど、多様な文化に触れることができる。
  ・最先端の技術に触れることができる。
  ・万博ならではの建造物や乗り物を体験できる。
 そして何よりも、これらのことが一度に体験できるってことではないでしょうか。そんな魅力を、そして「想い出のいっぱい詰まった会場」の変遷を少しでも記録に残しておきたい。来年もその気持ちを大切に、このサイトを作り上げていきたいと思います。


 後に、いつも当サイトにお越しくださいますみなさん、どうもありがとうございます。来年も「万博ファン」の皆さんにとって、楽しい一年でありますように。そして、都市公園として整備される会場跡地へ再び入場できる日を楽しみにしたいものですね。



#05 万博とことば〜「アテンダント」考 05/10/25

   愛知万博が閉幕して、はや一ヶ月、早いものです。あの喧騒が昨日のことのようでもあり、はるか昔のことのようでもあり。今回のテーマについては万博の会期中にまとめるつもりでしたが、万博訪問と訪問記執筆に追いまくられ(?)、とうとう今日になてしまいました。「万博」と「ことば」にちなんだテーマとして、「アテンダント」を取り上げてみることにしました。


 1、「案内嬢」の呼称の変遷

 ”博の華”といえば、会場や各パビリオンで私たちの案内をして下さった「案内嬢」のみなさん(あえて、日本語に訳すとこんな感じでしょうか)。案内嬢になるには非常に狭き門、応募が殺到したといいます。万博の案内嬢があこがれであるのは、35年前の大阪万博のときも同様、いつの時代も変わらないものです。

 この案内嬢、愛知万博では「アテンダント」と称されていました。最初のころは、「アテンダント」と言われても、どうも案内嬢と結びつきません。一般的には旅客機の「客室乗務員」を思い浮かべるのではないでしょうか。「案内嬢=アテンダント」というのは、閉幕間近にはちょっと聞きなれてきましたが、やはり取ってつけたような印象を拭い去ることはできませんでした。
 
 16年前の名古屋デザイン博では「コンパニオン」。そして、35年前の大阪万博では「ホステス」と呼ばれていたそうです。「そうです」というのは、私はまったく覚えていなくて、大阪万博関連の本を通じて初めて(改めて?)知ったからです。これより、案内嬢の呼称は、順次、次のような変遷をたどってきたわけですね。
   
  ホステス → コンパニオン → アテンダント

 
 2、「小姐(シャオジエ)」の意味の変化

 ころで、もう十数年前のことになりますが、中国語教室に通っていた時期がありました。しかし、バンドへの参加と次女の誕生を機にやめてしましました。水曜日の夜に中国語教室とバンド練習の両方は体力的にもきびかったのに加え、育児で趣味どころではなくなっしまったからです。

 「言語学的に、母音を学習するならフランス語、子音を学習するなら中国語」とはよく言われていることばです。中国語は、文法構造が印欧語(屈折語)・日本語(膠着語)とは異なる独立語であり、声調を有し、一方で日本語と共通の語彙を用いるなど、非常に興味深い言語です。

 そんな中国語学習でしたが、どうしても馴染めなかった単語が、ひとつだけありました。「もしもし」と人を呼びかけるときに用いる「同志(トンチー)」です。「同志」ってことばは、どうもイデオロギー色が強すぎて、今日の日本社会には馴染まないようです。このことばを目にするのは、劇画『ゴルゴ13』において、登場人物がそのよう社会体制の国の出身であることを強調するときぐらいのものです。

 
 て、このことばに関して、先日、興味深い新聞記事をみつけました。中国人ジャーナリスト、モー・バンフ氏のエッセイ「客を老師と呼ばないで」(朝日新聞土曜版be、9月10日)。長いですが、前半部分をちょっと引用させていただくことにします。

 「同志」。長い間、中国ではこの敬称を冠して他人を呼んでいた。しかし、文化大革命以後、共産党色の濃いこの敬称に国民は抵抗感を覚え、日常生活ではあまり使わなくなった。
 そこで復活したのが、それまでブルジョワ的な呼び名とされていた「先生」(ミスター)、「小姐」(ミス)、「女士」(レディー)、「太太」(マダム)などだ。
 しかし、いつの間にか、「小姐」が風俗の女性を指す専用の名詞と化してしまい、レストランやホテルで、そう呼ばれるのを嫌がる若い女性従業員が現れた。90年代の後半あたりから、私は女性従業員に対して「小妹」という呼び名を使うようにした。(下略)。
(作者注:下線は作者による)。

 「ことば」というものは、使い古され飽きられてくると、また新しい表現が生まれやがて古い表現は使用されなくなっていきます。特に尊敬語は、使えば使うほど磨り減ってくると同時に「値打ち」がなくなってくるものです(詳細は『大垣方言研究所』「ことばの変化のしくみ」参照)。「小姐」という呼び名も、使い古されるうちに「値打ち」が下がってしまったようです。同時に、風俗の世界においても、時代の最先端をいく「小姐」をいち早く採用、やがてこちらの世界だけに定着してしまったと考えられます。


 3、「アテンダント」の行方

 れでは、話題を万博の案内嬢に戻すことにしょう。まず最初に、歴代の3つの名称の原義を、ここで再確認します。
  ホステス    @(客をもてなす)女主人。 Aバー・ナイトクラブなどの接客係の女性。
  コンパニオン  @仲間。つれ。伴侶。 A催事などで、女性の案内・接待係。
  attendant    @付き添い人。随行員。係員。案内係り。
 原義はいずれも「客をもてなす、案内する」であり、マイナスイメージはありません。それでは、どうして初期の「案内嬢」にマイナスイメージが伴うようになっていったんでしょうか。順に推理していきたいと思います。


 つの時代でも、女性の憧れの職業といえば旅客機の乗務員。大阪万博の頃には「エアー・ホステス」と呼ばれていたようです。そこで、大阪万博開催にあたり、「万博の華」である案内嬢にも、このプラスイメージを伴った「ホステス」を拝借したと考えられます。一方、水商売の世界でも、時代の最先端をいくことばをいち早く採用したのでしょう(中国でも同様の例を示していますね)。

 やがて、「ホステス」は、水商売の世界の女性を示すことばとして定着。それに従い、「エアー・ホステス」と呼ばれるのを嫌がる若い女性乗務員が現れ、「スチュワーデス」に改名されたのではないでしょうか。時代は巡り巡って、同じことが繰り返されます。
時代の最先端をいくことばも、使い古されるうちに「値打ち」は下がっていきます。最近は、「スチュワーデス」も「スッチー」などと蔑称されるようになり、その「値打ち」が下がっていきました。これに代わり、「フライト・アテンダント」と称されるようになりました。しかし、一般社会にはあまり浸透していないようで、『広辞苑』にはまだ採用されていません。

 博覧会の案内嬢についても同様、名古屋デザイン博のころには「ホステス」はもはや使用されず、「コンパニオン」という斬新な名称が採用されました。この新しい名称も水商売の世界で採用、現在では宴会で接待をする女性にも使用されるようになりました。そして、今度の愛知万博。使い古された「コンパニオン」は使用されず、大阪万博のときと同様、旅客機の女性乗務員の名称「アテンダント」を拝借しました。「時代は繰り返される」んですね。


 「アテンダント」という名称も、この万博で一般社会にかなり浸透したようです。ところで、この「アテンダント」、先の「ホステス」「コンパニオン」と同様、水商売の世界にも浸透していくんでしょうか。それは、先のお楽しみということですね。また、そのころには博覧会の案内嬢の名称はどう変化しているんでしょうか。でも、この先、日本でまた博覧会が開催されるなんてことがあるんでしょうか?


(作者注:『大垣方言研究所』「エッセイ〜ことば」の「『アテンダント』考〜愛知万博を振り返って」を改名して掲載したものです)

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