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万 博 考
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#03 城郭と万博・2〜ランドマーク 05/08/21 今まで多くの城郭を訪れたのですが、城郭を訪れるときのわくわく感は小学生のころから変わらないものです。目的地に向かう途中、まず目に飛び込んでくるのが天守閣。特に平山城なんかだと、移動中の列車や車の中からその姿を見つけると一気にボルテージが上がります。去年訪れた中国・四国の旅もそう。新幹線の中からは、街の中にそびえる岡山城。移動中の車からは、小高い山の上に建つ丸亀城。天守閣はまさにランドマークですね。 天守閣は大名の権威を示すものですから、城下町のどの位置からでもその姿が見えるように縄張りされています。現在でも城下町を歩いていると、主要道の町並みの向こうに天守閣が望めるということを、よく経験します。まさに、見せるための建造物であるわけです。 さて、大阪万博のランドマークといえばご存知「太陽の塔」。名神高速道路を走っていると、今でもその雄姿を目にすることができます。そして今回の愛知万博のランドマークは2つ。会場外から見たランドマークが「大観覧車」であることは、会場へ足を運ばれたかたなら、すぐ納得いただけると思います。それでは、会場内におけるランドマークはなんだと思われますか?私の感想では「ワンダーホイール展覧車」です。 会場でも標高の高い企業パビリオンソーンの一画に位置し、建造物の高さも50mあまり、外装は他の地味なパビリオンと異なり、ど派手な”赤”。城郭に例えると、まさに本丸に鎮座する天守といったところです。万博会場を歩いていても、至るところからその姿を目にすることができます。もしかして、ランドマークとして意図的に現在の位置に設置されたのではないかと思いたくなるほどです(実際はどうなのでしょうか)。
なお、「大地の塔」も高い建造物なのですが、標高の低い場所に建てられています。したがって、どこからでもその姿が確認できるというわけにもいかず、ランドマークとしては不適格といえるかもしれません。 それでは、会場の各地点から見たワンダーホイールの姿をご覧になってみてくださ(→写真)。丘陵地の上に位置し、階段上や通りの向こうにその姿を現すというのは、「天守閣」そのもの。さらに、建造物の向きやその距離により、現在地を確認することもできます。まさに愛知万博のランドマーク。 愛知万博会場へ訪れた際は、会場各地からその姿を、是非、ご自分で確認してみてください。 〔追記〕 「万博百景集」にみる展覧車 05/10/10 愛知万博閉幕間際、コモン2の「EXPOギャラリー」において、地元・愛知県出身者による作品展「万博百景集」が開催さえていました。数多くの作品を見ていると、それぞれの会場やパビリオン、そこで楽しんだ日々が思い起こされましたし、同時に万博もすぐに「想い出」になってしまうんだな、と感慨深く思いました。 出口には120pにおよぶ画集が用意されていたのですが、展示のみ。希望者は、各自で販売元に発注するということになっていました。閉幕後注文すると、初版は既に売り切れ、増刷待ちとのことでしたそして、閉幕2週間後、やっと画集が到着しました。 万博の想い出に浸りながら画集をめくっていると、描かれている対象がかなり特定されていることに気がつきました。対象物のベスト5は次のようでした。
第1位は「展覧車」。皆さん、やはりランドマーク「展覧車」に対する印象が強かったようです。また、”赤”一色の建造物も絵になりやすいようですね。 第2位は会場外から見たランドマークの「大観覧車」、この順位も納得です。 意外だったのは、「夢見る山」の人気。最初のころはそんなにも気にならなかったのですが、閉幕間際には会場の至るところから「夢見る山」が展望できることに気がつきました。結果をみると、ランドマークとしての「夢見る山」になかなか気がつかなかったのは、私だけだったようです。 第4位は「大地の塔」。標高が低いことから、上記のパビリオンほど目立たなかったということでしょうか。 上位4位は、いずれもランドマークだということですね。ちなみに、他の対象物として「ゴンドラ」「愛・地球広場」「踊るサキュロス」「サツキとメイの家」などが見られました。 |
#02 城郭と万博〜文化”遺跡” 05/08/11 城郭・万博との出会い 私にとって、小学生4年生の大阪・姫路への家族旅行(#10)は大変思い出深いものになりました。大阪万博や姫路城との出会いが、その後の私の趣味を方向付けたのではないかと思います。大阪万博は6回、この愛知万博は16回訪問、そして城郭は60余箇所訪問するという「万博オタク」「お城オタク」になってしまいました。 どうして万博や城郭に惹かれるのか、理屈は後からいくつでも並べることはできるのですが、三つ子の魂なんとやら、あのときの感動・衝撃が35年経った今でも、私の中に残っているのだと思います。博覧会や城郭に対する興味はずっとあったのでしょうが、この年齢になってまた、これほど万博や城郭に夢中になるとは思ってもみませんでした。 城郭と万博会場の共通点 そんな私の好きな城郭と万博会場には、いくつもの共通点があるのではないかと思います。先の「アクセント論とジャズ理論」のように、ちょっと強引なところもあるかもしれませんが、「名古屋城」と「愛知万博長久手会場」を例に取りながら、私の思うままに共通点を列挙してみたいと思います。 (1)国家プロジェクトとして短期間のうちに建設 名古屋城は、徳川家康の天下普請として、加藤清正をはじめとする西国諸大名によって築城されました。1610年、大阪の豊臣秀頼に対する防御として築城が開始され、2年後には天守閣や櫓が、5年後には本丸御殿が完成、尾張家初代の義直が入城しています。もっとも、1615年の大阪の陣で豊臣家が滅亡、当初の目的が達成されたことから、途中で築城が放棄され、未完のまま明治維新を迎えたとされています。名古屋城に総郭線がないのは、そのせいだとされています。 愛知万博は、1981年に名古屋オリンピック誘致に失敗したことへの埋め合わせとして、愛知県が万博を誘致したことに端を発しています。1997年のBIE総会で念願の万博開催権を獲得し、国(通産省・建設省・環境庁)、県、地元企業で「2005年日本国際博覧会協会」が設立されました。幾多の変遷を経て、2001年に主会場が瀬戸の海上(かいしょ)の森から愛知青少年公園に変更され、翌年10月には会場の起工式が行われました。そして2005年3月に開幕し、現在に至っています。こちらも3年半で完成ということです。 (2)機能していた時期が短期間 名古屋城が尾張藩の政庁として機能していたのは、築城から廃藩置県までの256年間。同じ歴史的建築物である神社仏閣が創建以来、現在に至るまで本来の機能を果たしていることからみても、名古屋城が機能していた期間というのは短かったといえるのではないでしょうか。 万博は、BIEの規定で開催期間が半年と定められています。恒久的な博物館やテーマパークと異なり、限られた短い期間だからこそ、人をひきつける魅力があるのでしょうね。 (3)閉ざされた広大な空間 名古屋城は尾張藩主の住居でもあり、尾張藩の政庁でもありました。広大な堀・土塁によって周辺域から隔離され、出入りも限られた城門から、限られた藩士のみが許されていました。 愛知万博会場も、閉ざされた空間としては同様です。当然のことですが、スタッフと入場券購入の観客だけが、限られたゲートから入場を許されています。会場周辺の警備も厳しく、随所にはガードマンや警察の車が配備されています。 (4)多重構造 名古屋城は、本丸を核として、周囲に二の丸・西の丸・御深井丸、さらに三の丸が取り巻いています。 愛知万博会場は、センターゾーン・日本ゾーンを核として、周囲にグローバルゾーン・企業ゾーン、さらに森林体感ゾーン・遊びと参加ゾーンが配置されています(広大な区域が、このように多重構造的に分割されていることは別に特殊なことではないのですが)。 (5)遺跡・公園として残存 名古屋城は、本丸が城郭公園として、二の丸・三の丸が旧日本軍、アメリカ進駐軍の施設を経て公園や官庁街となっています。 愛知万博会場は閉幕後、一部の施設を残して以前の青少公園のような自然公園に現状回復される予定です。なお、大阪万博会場は万博記念公園として、現在も当時の区画のまま保存されています。 以上、表にまとめると次のようです。
おわりに 城郭研究は、それがどのように建設されたかに主眼が置かれているように感じますが、私は、それがどのように解体され現在に至ったかに、より関心を持っています。城郭が解体されたのは廃藩置県以降、もう130前のことですから、その過程は資料でしか確認することができません。 愛知万博会場は、2ヶ月後にはその使命を終え、破棄される運命にあります。こちらも建築されている間はあまり関心もありませんでした。しかし、会場がどのような過程で解体され、城郭と同様、どのように「遺跡」化していくのか、非常に興味を持っています。城郭が破棄される過程は130年前の人たちしか目にすることはできなかったのですが、城郭と同じ巨大プロジェクトの万博会場が解体される過程を、この目で確認できる絶好の機会です。言い換えると、城郭棄却の疑似体験ということになるのかもしれません。万博はまもなく閉幕ですが、その後の会場も興味のあるところです。 [参考文献] 吉見俊哉(2005)『万博幻想』ちくま書房 大山邦興(2004)『名古屋城〜名城をゆく13』小学館 |
#1 ごあいさつ〜『万博を歩こう』開設にあたって 05/10/26 2つの万博 35年前に開催された大阪万博。外国人も異文化も身近になく、そしてテーマパークもなかった時代、まだ9歳の少年にとって、大阪万博は衝撃的な体験でした。外国館を通じて、多様な国や民族・文化のあることを知り、多くの企業館を通じて新技術を体験し、同時に「高度成長期の日本」を感じるこどができました。 そして、今回の愛知万博。35年を経て、高度成長の経済重視の時代から低成長の環境重視の時代へと移り変わりつつあります。開幕前から「時代遅れのイベント」との批判が多方面から寄せられてきましたが、ふたを開けてみると、ご存知の通り、大盛況でした。当時の少年少女を、そして多くの大人を魅了したバンパクの魅力は、少しも衰えてはいなかったようです。 そんな2つの万博の感動を少しでも記録に残しておきたいと思いたち、このサイトを開設しました。 遺跡を歩く さて、作者には城郭や街道を散策するという、万博とは一見何の関係もないような趣味があります。江戸時代の遺跡である城郭や街道は、廃藩置県後の廃城令、街道制度の廃止や交通体系の変化により、この130年間の間に大きくその姿を変えてきました。 しかし、当時の建築物や堀・土塁が当時のまま残されている姫路城などの大きな城郭遺跡だけでなく、街の中に埋没してしまった城郭遺跡を歩いていると、町名や通り・側溝にその痕跡を発見することがあります。街道についても同様、観光資源として整備されている街道だけでなく、バイパスの裏道や都会の細い路地にも街道の痕跡を見つけることができます。 そんな現在の城郭や街道を、130年前の姿の「成れの果て」と考えるのではなく、現在の風景の一部として記録するというのが、私の遺跡散策のコンセプトになっています。ちなみに、現在の言語学には、「方言は、ある規範(共通語)から崩れたものとは考えずに、ひとつの言語体系としてありのままの姿を記述する」という、記述言語学という分野がありますが、この方針は、この言語学の考えをそのまま遺跡記録に応用したものです。そして、その記録をつなげ合わせることにより、その歴史の変遷を見ていこうというのが、当サイトの第一のコンセプトです。 第二のコンセプトは、実際に自分の足で現地を歩き、自分の目で観察するということです。今まで、多くの城郭や街道を散策してきました。それらをまとめて『城郭を歩こう』『街道を歩こう』というサイトを開設しようと思っていましたが、まとめる前に万博が開催、この『万博を歩こう』が先になってしまいました。 遺跡としての万博会場 愛知万博会場は半年の会期を終え、施設の撤去が始まりました。つまり、もう「遺跡」化しつつあるわけです。大阪万博会場が、その後「万博公園」という「遺跡」となったのと同様に。城郭は、130年前にその使命を終え解体される運命となりました(一部の例外を除いて)。130年前の私たちの祖先はその様子をリアルタイムに体験することができたのですが、現代に生きる私たちは、残された資料でしかその様子を知ることはできません。 そのように考えると、万博会場の解体は、城郭解体の「疑似体験」といえるのではないでしょうか。城郭は遺跡となった現在の姿をみるしかありませんが、万博会場は機能していた時間を体験できなだけでなく、それが遺跡化する様子もリアルタイムに体験することができるのです。つまり、130前の祖先たちが城郭が機能していた時代と解体される様子を体験できたのと同様に、です。 つまり、作者にとっては城郭も、街道も、万博会場も同じ「遺跡」に他ならないというわけです。同時に、これらは時代の遺物としてだけではなく、いずれも現代の風景の一部として存在しているのです。 当サイトのコンセプト 当サイトのコンセプトは次の3つの記録の公開です。 1、2つの万博を体験した作者の訪問記録。 2、2つの万博の風景、パンフレット、スタンプなど資料。 3、2つの万博閉幕との会場の変遷を作者自身の足で歩いて記録。 つまり、当サイト名『万博を歩こう』には「会期中の万博会場を歩こう」と「万博遺跡を歩こう」という2つの意味があるわけです。 それでは、万博をいっしょに歩いてみましょう。 |
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